長寿での訃報を聞き、どん欲に行きたいと願う自分。

日記

親戚で拭こうがあり、今夫は通夜の焼香に出かけています。
私の住んでいる地域では通夜は親族、親戚で執り行い棺に納めるまでの儀式を行います。
翌日火葬場へ行き告別式、精進落としの流れになりますが、今夜は夕刻に和尚さんがご自宅に出向き枕経の読経から始まり今頃は精進落としが始まっているかもしれません。

亡くなった方は間もなく百歳と聞いていますが、最後の数年は喪主である一人息子を困らせる行動があったようですが、90歳過ぎまで威厳を持って生活していたと聞くと、大往生かなと思いました。
いずれの日にかそんな時が私にも来るけれど残っているであろう人生を嚙みしめながら歩みたいです。

若い頃、歳を取ったらロッキングチェアで揺られながら過ぎた幸福を回想しながらうたた寝する自分の姿を描いていました。
でも老境に入ってみると、まだまだ先を見ている自分がいて回想するのは早過ぎで、達成したい目標や希望が次々沸き起こり、生きることにどん欲な私自身です。

最期の瞬間に満足した人生を送ったと自負できるように色々なことに励み、悩み、他人から見れば無意味に思えても前向きに過ごしたいです。
十分生きたよねと思い返せるのはいつのことだろうか。
姑を送ってから暫らくぶりの葬儀となりました。

学校と家が近いのは、必ずしも良いことばかりではないという話。

日記

school

最近、ファミレスなどでよく盛り上がるネタ、というのがクラスには絶対に一人はいるやつというネタです。
例をあげると、学校にえらい近いところに住んでいる人というのは絶対にクラスにはひとりはいるはずです。
私が中学生の時にもそんなクラスメイトがいたのですが、朝ぎりぎりまで家にいることができるので、クラスの中でも羨望の眼差しでみられていたことをが思い出されます。

特に朝のテレビ番組というのは、子供向けの番組が多いことから、全部見終わってから登校できるのはすごいメリットだといえるでしょう。
でも、必ずしも学校の近くに住んでいることがいいことだらけではありません。
私のクラスメイトは学校から見える場所だったので、何時に家を出たか、何時に帰ったか、ということがクラスメイトに知られ、プライバシーが全くない状態でした。

また、友人の寄り道の場所になってしまい、色々と気を使わないといけないことがある、というのはみていてわかりました。
一方、私の家は学校から結構な距離だったので、基本的に徒歩通学の多い学校でしたが、私は珍しい自転車通学でした。
自転車通学も自分の好きな歌を歌いながら登校できるのでそれほど悪いものとはおもいませんでした。

花言葉っていろいろあります

日記

最近ちょっとアロママッサージに嵌っています。といってもマッサージをしてもらいにサロン等に行くのではなく、自分の好きな香りのアロマオイルを購入してお風呂あがりにつけてマッサージをしています。

冬には乾燥の予防にもいいし、血行をよくして足のむくみなどを解消できます。それに疲れも取れるし香りによって様々な効果があるんです。例えばラベンダーなどはリラックス出来る香りですし、カモミールなども同じく癒し効果がある優しい香りです。

ですがそんなリラックス効果があるラベンダーの花言葉はなんと疑惑と不信なんです。なんとなくイメージなんですが花言葉って恋愛絡みのもっと可愛い感じのモノだと思っていましたが、案外そうではないんですよね。

特に毒がある花とか彼岸花などはちょっと禍々しい感じの花言葉が付けられています。私の中で真っ先に思い浮かぶ花言葉はバラで愛の告白系だったのですが花言葉を調べてみると本当にいろいろな意味があって興味深いです。バラなんかは色によって、プレゼントをする本数によって意味が違ってきます。ちなみに黄色いバラは嫉妬だったりするんです。

あと花ではないけど四葉のクローバーにも花言葉があって4つばだけに4つの花言葉がありますが、私が1番好きなのは「私のモノ」といった意味mainですね。

隠れキリシタンの聖書

日記

先日、偶然だが市立図書館で隠れキリシタンの遺した聖画の画集を発見した。遠藤周作の『沈黙』を読み終えたばかりの自分には運命的な出会いだと思い、これを借りて読んでみる。
しかし意外にも自分の関心を誘ったのは、そのキリストやマリアの絵ではなく、付録として巻末についていた隠れキリシタンの聖書だった。
旧約聖書や新約聖書の有名シーンを日本風に変化させていて、まさに日本版バイブルだ。その中で色々な興味深い箇所が散見された。
たとえばマリアがある王様に求婚されるのだが、王様がどれだけ豊かな財宝をマリアのために捧げると言っても、「その財はこの世限りのもの。来世での救いこそ、真に価値あるものです」と説く。
これはどう見ても仏教思想の輪廻転生の概念であり、永遠を約束するキリスト教の世界とは異なるものだ。
またキリストも唯一神デウスの一部がマリアの体を借りて受肉したものとされており、デウスとキリスト、そして聖霊からなるキリスト教の教義とやはり逸脱している。
どちらかと言えば分霊や化身に近い。
つまりキリスト教の神であるヤハウェ、つまりデウスも、神仏のひとつとして解釈されているわけである。
阿弥陀如来よりもデウスの方が徳が高い、もしくは如来の正体は実はデウスである、という感じだ。
もちろんキリスト教の世界観ではこれらは誤りである。
デウスはデウスであり、八百万の神々でも如来でも菩薩でもない。
しかし宣教師のいなくなった日本ではそれらの点が修正されず、日本の色に染まって変形してしまった。
ここに日本の宗教観の概念図を見ることが出来、大変興味深い文献だと感じた。